東邦中学校卒業生対談

城之内ミサ 長岡大輔

東邦中学校卒業生対談
長岡大輔さん×城之内ミサさん

音楽が本来あるべき姿を、この学校で教わった気がします
ドイツのブレーメン・フィルハーモニー管弦楽団でオーボエ奏者として活躍する長岡大輔さんと、ユネスコ平和芸術家として活動しながら東邦音楽短期大学で教鞭も執る城之内ミサさんは、共に本校出身で、しかも同級生でもあるという間柄。ここではそんなお2人に、中学時代の思い出や、現在の音楽活動とのつながりなどについてお聞きしました。中身の濃い3年間を同じ環境で過ごした2人だけあって、終始なごやかな雰囲気の対談になりました。

東邦中学校を目指したきっかけ

−−−現在どのような音楽活動をなさっているか教えてください。

城之内 まず、国連機関であるユネスコ本部から任命していただいた「ユネスコ平和芸術家」として、日本国内をはじめ世界各地でコンサートを行っています。奏者や観客の皆さんと、世界平和や世界遺産保護の重要性といったユネスコの精神を共有しましょうというのが大きな柱ですね。それと並行して、東邦音楽短期大学で授業やコンポージングアーティスト専攻のレッスンを持たせていただいています。

−−−ユネスコ関連の音楽活動の1つである<世界遺産トーチランコンサート>を、羽田空港で月1回行っていますね。

城之内 もともと子どもの頃から羽田空港が大好きで(笑)、当時の国際線は羽田だったので、日本にいながら外国の雰囲気を感じるところに憧れていました。その羽田空港と、東日本大震災後にユネスコの事業でご縁があり、毎月コンサートというお話をいただきました。そこには東邦中学校と高等学校の生徒による合唱団も出演しています。音楽を通じたグローバリズムを掲げる学校の方針とユネスコのテーマがうまく合致して、未来を担う子どもたちの代表として参加することになりました。他にも、私個人のシンガーソングライターとしての仕事もあって、これらが今はすごくいいバランスで回っていると思います。

−−−長岡さんはドイツを拠点に活動されているそうですね。

長岡 東邦中学校で大きな出会いがあって、ヨーロッパ音楽に強い関心を持つようになりました。それで大学を卒業した1983年に、勉強のためドイツに渡りました。そのまま向こうでオーディションを受けて、今はブレーメン・フィルハーモニー管弦楽団のオーボエ奏者として活動しながら、ブレーメンの音楽大学でも教えています。日本人がドイツ人にドイツの音楽を教えるという不思議な立場ですね(笑)。演奏旅行でヨーロッパ各地に行くことはありますが、基本的にはブレーメン市民のために、地域に密着した音楽活動を行っています。

−−−中学から音楽の学校に進むというのはけっこう大きな選択だと思いますが、どうしてその道を選ばれたのでしょうか?

長岡 僕はもともと管楽器に興味があって、小学校の行き帰りにリコーダーを吹いているような子どもだったんです(笑)。息を使って演奏する楽器がものすごく好きで、親にねだってフルートとかサックスも買ってもらったのですが、何かしっくり来ない。それで他の人が持っていない楽器が欲しいと小学生なりに考えて、オーボエを始めたのだと思います。気付いたらもうオーボエを手に取っていて、その魅力みたいなものに惹かれていました。その小学校に、千代延尚先生という有名な音楽の先生がいらっしゃって、その先生が恩師と仰がれている方が東邦音楽大学にいらっしゃった関係で、東邦中学校への進学を勧めてもらいました。受験対策のようなことは特にやっていませんが、地元の音楽教室で半年ほど聴音などのトレーニングをさせていただいて、入学試験ではピアノとオーボエを演奏しました。

城之内 私は5歳の頃にピアノを習い始めて、その先生のご友人が東邦のピアノの先生だったんです。もちろん当時は音楽の学校に行くなんてことは全然考えていませんでしたが、早い時期から自分で曲を書き、思いや感情を音符で表わす楽しさを覚えていました。そして小学校5年生のとき、東京藝術大学から赴任して来られた大津三郎先生という、NHKの合唱コンクール課題曲<花のまわりで>を作曲された先生に、自分の書いた曲を見ていただいたら、「君は作曲家になるべきだ」とおっしゃってくださったのです。それでピアノの先生に相談し、中学から基礎をやった方がいいということになって。というのも、私はモーツァルトの曲に勝手に7thとかを入れて弾いちゃうような破天荒な小学生で(笑)。これがもし、すごくきちんと音楽をやるタイプの子だったら、例えば音楽に進むのは大学からという道もあったのかもしれませんが、私はどうも自由すぎる傾向があるので、早いうちからピアノで基本をちゃんと学んだ方がいいよと。

権威や堅苦しさを感じさせない先生

−−−東邦中学校での学校生活は、どのようなものでしたか?

長岡 僕が入ったときは1クラスが50人強だったかな。男子は3人だけで、2年生に男子がいなくて、3年生に2人。だからよく構ってもらえて、いいお兄ちゃんという感じでしたね。少数派でしたが、それで嫌な思いをしたことは一度もありません。

城之内 休み時間や放課後にもいろんな楽器の音が聴こえていて、音楽学校らしい雰囲気がありましたね。私も当時流行っていた歌謡曲とかを全部耳コピして弾いて、それを担任の先生が褒めてくださったりして。ジャズを弾いたら数学の先生が「いいねえ」と言ってくださり、私もお調子者だから図に乗るという(笑)、その繰り返しでした。

−−−今でも覚えているような、思い出深い授業はありますか?

長岡 よく2人で話して意見が共通するのは、作曲の片柳英男先生が担当してくださった合唱の授業が非常に印象的だったことです。そのときの曲は今でもほとんど覚えているし、歌えると思います。思春期が始まる年代の、砂に水が染み込むように音楽が入ってくる時期に、特に素晴らしい曲を選んで指導していただきました。最初に定期演奏会でやったのは、スメタナの<売られた花嫁>の中の合唱曲だったんじゃないでしょうか。

城之内 そうでしたね。

長岡 僕は劇場でオペラも演奏するので、今でもこの曲が来るとちょっとニコッとしてしまいます(笑)。あとはカヴァレリア・ルスティカーナの<オレンジの花は香り>とか、ヘンデルのオラトリオの中の合唱曲とか......普通の中学生だったらまず出会えないような名曲を、それも易しく歌いやすくしてあるものを与えてくださって、とても我々の基礎になっています。授業自体も堅苦しさが一切なく、我々が行くともうピアノを弾いていて「この曲わかる人〜」みたいな感じで自然に授業に入られていました。

城之内 特に私は作曲が好きだったので、片柳先生の授業にはものすごくのめり込みました。ただきれいなハーモニーを歌いましょうっていう指導ではなく、「このハーモニーがあるからこの前後が生きているんですよ」とか、「だからここがフォルテになっているんですよ」という具合に、作曲家の観点で伝えてくださる。とてもわかりやすかったですね。思い出深い曲はたくさんありますが、3年生のときにやったフォーレのレクイエムは特に印象に残っています。レクイエムの中でも特にきれいな<アニュス・デイ>とか<イン・パラディスム>とか。ポップスが好きな私でも、間違いなく好きになるクラシックの曲を教えてくださいましたね。

長岡 人にものを教えるには権威のようなものがないと説得力がないという錯覚がありますが、そういうものを一切感じさせないのも片柳先生の素晴らしいところでした。友達じゃないかと思うくらいの感じで、自分の作品を「ちょっと聴いてみてくださいよ」って弾いてくださったりとか。僕自身も学校で教えるようになった今、人・音楽・教師というものが1つのカラーになった片柳先生みたいな方になりたいなと思っています。

城之内 人に威圧感を与えず、常に裏表のない平等の目線で、音楽の豊かさを共有しながら足りないものを補ってくださいました。私もまだまだ及びませんが、片柳先生と同じ方向で学生たちに教えているような気がします。

中学時代の経験は大きな財産

−−−中学時代に経験したことが、今の自分にどう影響していると思いますか?

城之内 大輔は当時からずば抜けて上手で、私が書いた曲でもよくオーボエを吹いてもらっていました。3年の謝恩会ではオーケストラと合唱団を作って、自分で曲と歌詞を書いてアレンジして、指揮も自分でやったのですが、そういうときにも必ず大輔がいて、ここ一番という盛り上がりのところを、とても素晴らしく吹いてくれて。

長岡 それは、ミサが(曲を)上手く書いてくれていたから。ミサが何か書いてきたら、みんなでやってみようっていう雰囲気がありましたね。

城之内 だから、今作曲していても、大事なところには絶対オーボエが出てきます。ここぞというメロディはオーボエかコールアングレ、フルートくらい。そして、ここはオーボエしかない!って思うときに出てくるのはいつも大輔の音色なんです。

長岡 まずいなあ(笑)。

城之内 そんな気持ちで書いた曲を、例えばパリのオペラ座の奏者に演奏してもらうと、「あなたはオーボエのために生まれてきたような作曲家ね」って言われたりするんです。もう感謝しかないですね。感受性の豊かな中学時代に、あんなに上手い演奏を身近で聴けたというのがすごく重要で、これは本当に大きな宝物、財産だと思っています。

長岡 最初に話した大きな出会いの話をしますと、1年生の1学期にオーボエでオーケストラの授業に参加させてもらって、とても衝撃を受けたんです。何もわからないまま合奏室に行って楽器を出して、当時いらっしゃった山田研一先生というオーボエの先生のとなりで吹かせていただいたのですが、そのときに演奏したのがヘンデルの<王宮の花火の音楽>という曲で、しびれるほど感動しました。それ以来ヘンデルが大好きになって、バロック時代の音楽に興味を持って、バッハに行き着いて......後にドイツに渡ることになる自分の方向性の種を蒔いていただいたのが、その授業でした。あのときの経験がなければ、今の自分はいなかったでしょうね。

−−−どういうところに感動したのでしょうか?

長岡 バロック音楽というのは地球上の物理に密接して書かれた、物理的に正しい音楽だと思うんです。<王宮の花火の音楽>の場合、序曲の速い部分で16分音符の音形が長く続いて、頂点に到達した後にタンタカタカって下行音形になる。花火が上がって炸裂して落ちていく様子を、音で具現化しているんですね。もちろん、当時は全部感覚的にとらえていましたが、そういう理論や時代性などに興味を持つ入口を示していただいたと思います。

音楽が、多感な時期の道しるべに

−−−お2人とも音楽を通じて海外の国や人と接していらっしゃいますが、それに関して特に印象的なことはありますか?

長岡 ドイツ人は生まれてすぐ教会で音楽に出会い、教会という音響空間の中で音楽を聴いて育っていきます。そのことを肌で知ることができたのは僕にとって幸いでした。僕のいるブレーメンという街は、ブラームスが<ドイツレクイエム>を書いて初演した場所で、そのときのオーケストラが、僕が勤めているオーケストラの前身なんです。それで年に一度<ドイツレクイエム>を演奏させていただくのですが、この空間、この立ち位置に当時ブラームスがいて、この人たちが聴いていたというのを、遠い日本から来た僕が体験できることに今でも大きな感動を覚えます。

−−−人々の暮らしと音楽が近いところにある様子を、ありありと想像できますね。

長岡 ドイツで音楽活動をしていると、演奏家は娯楽を提供する人間だということを実感します。聴衆はお金を払って聴きに来たぶん、思い切り楽しんで元を取って帰っていきます。だからとてもポジティブ。音楽がどのように生まれ、聴衆がどのように受け入れているか。その需要と供給のバランスみたいなものが、僕にとっては居心地良く感じられるんです。それが今もドイツで演奏している理由の1つになっています。

城之内 とてもよくわかります。演奏する側にも、特権意識とか権威のようなものを感じないですよね。私が初めて国立パリ・オペラ座管弦楽団と一緒に自分のアルバムをレコーディングしたときも、みんな最初から「待ってました!」という雰囲気で、ノリノリで演奏してくださいました。半分ポップスの楽曲なのに「ここがすごくいい!」とか言ってくださり、全部終わったら「ブラボー!」。「あなたの音楽を私たちに演奏させてくれたことを、神様に感謝します」って、口々に言ってくださるんです。あの超一流の人たちがですよ!そこから今でもお付き合いが続いています。あるとき、「明日、オペラ座でパヴァロッティが歌うからいらっしゃいよ」って言われて行ってみたら、レコーディングで演奏してくれたメンバーたちがオーケストラピットから「ミサ〜〜」って手を振ってくれて(笑)。この人たちはどうしてこんなに心豊かで、目線を同じにしてくれるんだろう、素晴らしいなって思ったんです。だから私も、もっといろんな国でいろんな奏者の方とご一緒していきたいし、同じ時間を過ごして良かったと思ってもらえる音楽家になりたい。それが私の夢です。

−−−人の心を豊かにしてくれるというのが、音楽の本来の姿かもしれませんね。

長岡 中学生のときに味わった自然な感動や楽しみと同じものを、僕の場合はドイツでまた感じているような気がします。音楽の根源的な喜びや自然さ、ポジティブに音楽を聴く楽しさにもう一度巡り会ったような感じです。

城之内 片柳先生が私たちに初めて<マタイ受難曲>を教えてくれたとき、「作曲家は高いものに祈りを捧げています。皆さんもそういう気持ちで歌いましょう」とおっしゃったんです。音楽って本当はそういうものなのだと思いました。音楽には、ある種の権威を踏みしめて超えていかなければならない部分もありますが、その過程で忘れてしまってはいけないものがあるということを、この学校は教えてくれました。先生方や一緒に学んだ人たちと響き合った経験が、いつも自分を正しい道に戻してくれる。それが私にとっての中学時代でした。

長岡 素晴らしい音楽にどっぷり浸りきった中学の3年間は、僕の人生で今でも大好きな時期です。いわゆる思春期や反抗期の子どもは、何かに影響を受けたがっているものだと思うのですが、それが与えられなかったり、何なのかがわからないと、怒りや不満につながってしまう。でも僕らには音楽があって、ネガティブなものを全部押さえ込んでくれていたから、反抗期と呼べるものはあまりなかったように思います。音楽でもスポーツでも、そういうものがその年代の子どもたちには必要ですね。それを体験できるのがこの学校だし、自分はちょっと音楽が好きなんじゃないかなと思う人は、ぜひ来ていただきたいですね。

プロフィール

長岡 大輔さん

東邦音楽大学附属 東邦中学校1976年卒業
専攻:ピアノ(副科:オーボエ)
職業:オーボエ奏者 [ブレーメン・フィルハーモニー管弦楽団]

東邦音楽大学附属東邦中学校、東京藝術大学付属高等学校を経て、同藝術大学音楽学部で梅原美男氏、ヴィンフリート・リーバーマン氏に師事。1983年よりドイツに渡り、ミュンヘン国立音楽大学においてギュンター・パッシン氏のもとでさらなる研鑽を積み、マイスター・ディプロムを最高点にて取得する。室内楽をパウル・マイゼン、カール・コルビンガー各氏に、声楽をユリア・ハマリ、アーノルド・ベツイエン各氏に師事。1987年よりブレーメン・フィルハーモニー管弦楽団に在籍し活動する傍ら、カンマー・シンフニー・ブレーメンのソリストとしても北ドイツを中心としてヨーロッパ各地で演奏活動を展開している。2013年にはそれらの功績に対し、ブレーメン州より「カンマー・ヴィルトゥオーゾ」の称号を授与される。2000年よりブレーメン芸術大学音楽学部講師も務めている。

城之内 ミサさん

東邦音楽大学附属 東邦中学校1976年卒業
専攻:ピアノ
職業:音楽家・ユネスコ平和芸術家・東邦音楽短期大学特任教授

東邦音楽大学附属東邦中学校〜同高等学校(いずれもピアノ専攻)〜同短期大学(作曲楽理専攻)と進み、在学中より「3年B組金八先生」などの人気TVドラマや、CM、映画などの映像音楽作曲を手がける。1987年にはシンガーソングライターとしてデビュー。1988年より現在まで、国立パリ・オペラ座管弦楽団、国立パリ管弦楽団による演奏でオリジナルアルバムを制作。2000年、アジアのヒーリングをテーマにしたアルバムが欧米諸国でチャート上位にランクイン。これを機に各国からコンサートのオファーがあり、「城之内ミサ・世界遺産トーチランコンサート」を実施。NYのカーネギーホールをはじめとする五大陸でのチャリティコンサートや、各国との記念年コンサートを行う。作曲作品、音楽性などの国際的活動と実績が認められ、作曲家では日本人初の「ユネスコ平和芸術家」に任命される。